男鹿半島の歴史
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男鹿半島の地図

男鹿半島の地を表示します。マーカーにマウスのカーソルを乗せると男鹿半島の観光地が吹き出しに表示されます。


はじめに


男鹿半島の歴史では、日本列島並びに男鹿半島の誕生の概略を説明し、男鹿半島の旧石器時代から縄文、弥生と原始時代が続き、古代、中世、近世、近代から現代とその概略を説明します。

男鹿半島の歴史のスタート


大昔、日本海は未だなく、日本列島は大陸の東の淵の部分にくっついていた。約9,000万年前、地下深くに花崗岩になるマグマが入り冷却した。約7,000万年、冷えて固まった花崗岩は上昇し地表に現れていた。この頃のおよそ約7,000万年前が男鹿半島の歴史のスタートです。当時は今より暖かく、陸には恐竜、海には魚竜やアンモナイトが沢山生息していた。そこに活発な火山活動で噴き出した噴出物が沢山積み重なった。これが男鹿半島の最も古い地層の赤島層です。入道崎とその近くでは古い地層が観察できる。男鹿半島の地層は大きく見ると東に傾いていることが多いので、東に向かうとだんだん新しい時代の地層を見ることができる。

入道崎には「鹿落とし」という崖がある。大陸の一部だった時代、この崖は火山から噴出した火砕流が周りの石を巻き込んで固まった溶結凝灰岩である。入道崎から1㎞程南へ向かった崖の下には、7,000万年前に出来たピンク色の花崗岩と黒っぽい火山噴出からなる赤島層を見ることができる。これは、先にあった花崗岩と赤島層の割れ目にずっと後になって玄武岩をつくるマグマが上がってきて固まった岩脈です。俵をころがした跡のように見えるので「鬼の俵ころがし」と呼ばれている。

このような岩脈は、男鹿水族館GAOの海岸でも観察できる。平らに広がるあずき色の岩は、約3,400万年前に火山から流れた溶岩である。その中に、灰色のごつごつした岩山のようになって岩が海の方に伸びている。これもマグマが岩の割れ目に入り込んで固まった岩脈で、岩石は安山岩である。

鹿落し

入道崎 鹿落し


鬼の田っこ海岸

入道崎 鬼の俵ころがし


男鹿水族館付近

男鹿水族館GAO 溶岩


男鹿水族館付近  岩脈

男鹿水族館GAO 岩脈


西黒沢海岸

西黒沢層 西黒沢海岸

日本列島の誕生


約2,500万年、今の日本海となる部分に地下深い所から熱い流が上昇し、それに押されるように激しい火山活動を伴って日本列島になる部分が移動始めた。約2,000万年前になると、今の日本列島になる部分は大陸から離れはじめ、うしろに日本海を形成した。大陸の火山活動で積み重なった地層は、やがてマグマの活動がおさまると沈み、暖かく浅い海が広がった。約1,500万年に日本海の海底に砂などが積もり新しい地層(西黒沢層)が形成された。

日本列島の誕生を地球の歴史、即ち、地球の地質年代から述べると大陸の一部だった時代は、古第三紀の終わり頃まである。日本列島になる部分が大陸から移動始め、日本海が形づくられた時代は、新第三紀から第四紀である。第四紀は、氷期と間氷期の時代である。日本列島がほぼ現在のようになったのは、約10,000年前である。

日本列島  約2,500万年前

日本列島 約2,500万年前

約2,000万年前ぬなると、今の日本列島になる部分は大陸から離れはじめ、数100万年かけて移動し、うしろに日本海をつくりました。これは、今の日本海の部分に地下深くから熱い流れが上昇し、それに押されるように激しい火山活動を伴って日本列島になる部分が移動した。


日本列島  約1,500万年前

日本列島 約1,500万年前

大陸の火山活動で積みかさなった地層はやがてマグマの活動がおさまると沈み、暖かく浅い海がひろがりました。


日本列島  約3,00万年前

日本列島 約3,000万年前

その海底に砂などが積もり新しい地層(西黒沢層)をつくりました。


日本列島  現在

日本列島 現在

参照:男鹿市ジオパーク学習センター 男鹿市役所若美庁舎2階

男鹿半島の誕生


男鹿半島  縄文時代早期

男鹿半島 縄文時代早期(約8,000年前)

約70,000年前から20,000年前にかけて続いた氷期が終わり、地球の気候は温暖に向かった。同時に海面が高くなったが、約8,000年前の海面は現在より低く、八郎潟は海水の入る深い入江でカキが生息していた。


男鹿半島  縄文時代前期

男鹿半島 縄文時代前期(約6,000年前)

約6,000年前の縄文前期になると地球の温暖化は一層進み、海面は現在より数メートルも高くなった。そのため男鹿は本土と離れた島となった。


男鹿半島  縄文時代後期

男鹿半島 縄文時代後期~現代(約4,000年前~現代)

縄文時代の前期をすぎると気候は冷涼化に向かった。同時に今より高かった海面は下降し始めた。縄文時代後期には今まで水面下にあった浅い海底が地上にあらわれ、男鹿と本土は陸続きとなった。


男鹿半島  現在

男鹿半島 現在

参照:寒風山回転展望台「男鹿半島・大潟ジオパーク展示室」


男鹿半島  変遷

男鹿半島 変遷

男鹿半島の歴史


日本の歴史は、数十万年前の旧石器時代にはじまる。ついで縄文、弥生と原始時代が続き、古代、中世、近世、近代、現代へと発展してきた。

それでは、男鹿半島の歴史についてその概略を述べる。

旧石器時代
日本列島の旧石器時代は、人類が日本列島へ移住してきた時に始まり、終わりは1万6,000年前と考えられている。地質年代では、第四紀であり、氷河時代であった。海水面は今より約100mも低く、北海道とシベリア、及び九州と朝鮮半島は陸続きであった。昭和45年、男鹿中牧野の海岸でナウマン象の化石歯が発見された。付着していた土の分析から約1万8,000年前の釜谷地層と判断されている。

縄文時代
縄文時代は、1万2、3千年前にはじまり、約2,300年前の頃まで続いた。縄文時代は、早期、中期、後期と晩期に分類される。

縄文早期
氷河時代が終わり、地球温暖化のため海水面が徐々に上昇した。男鹿半島で縄文人の痕跡が認められるのは、約8,000年前の縄文時代の早期である。男鹿半島の北部の浜間口沖と南部の脇本沖は泥岩からなる陸地であった。男鹿半島の北部の海底から人類の遺物は確認されていないが、脇本から船越の海岸に早期の遺物が打ち上げられている。縄文時代早期では、男鹿は完全な島であった。

縄文中期
この時代の代表的な遺跡は、船川港南平沢大畑台の大畑台遺跡である。昭和53年の発掘調査により、竪穴式住居跡51棟分、土器、貯蔵穴から鳥や魚の骨が発見された。この遺跡は、日本鉱業の海面埋め立て土砂採集地となり消滅した。

縄文後期
雄物川と米代川が海面下に堆積していた土砂を運び砂州を形成し、島が本土と北と南で結びつき現在の男鹿半島となり、八郎潟が潟湖として形成された。縄文後期の遺跡には、女川の貝塚遺跡等がある。

縄文晩期
縄文晩期の遺跡には、上鮪川、浦田坂の上、比詰大沢、女川等にある。滝の頭付近にも遺跡があり、縄文時代人と水の係わりを示す好い例である。

弥生時代
弥生時代のはじまりは紀元前300年頃、終わりは紀元後300年頃(この間約600年)というのが、これまでの通説である。弥生時代は、金属器と石器の併用、稲作が行われた時代である。男鹿半島では、弥生式土器が多く発見されている。稲作の水田耕作が行われていたと推定されているが未だこの時代の水田跡が発見されていない。

古墳時代
脇本飯の森の小谷地遺跡から5世紀代の古墳時代の土師器がまとまって出土している。

古代
「くに」の発生~鎌倉幕府成立まで

大化2年 646 大和朝廷が大化改新により中央集権政治・律令制を軸として国家体制を確立。
斉明4年 658 阿倍比羅夫180艘の軍船を率い、秋田・能代の蝦夷の「恩荷」を征する。
男鹿の地名は秋田の蝦夷「恩荷」に由来するとみられている。
元慶2年 876 蝦夷が叛し、秋田城を襲う。腋(脇)本が蝦夷の手に帰す。
この頃のものとされている埋没家屋の遺跡が、脇本飯の森で発見されている。また門前五社堂に平安末期の仏像がおさめられている。
文治5年 1189 源頼朝・奥羽藤原氏征伐の勲功として橘公業に秋田・男鹿地方の地頭職を与う。

中世
鎌倉幕府成立~江戸幕府成立まで

建文元年 1190 藤原氏の遺臣・大河次郎兼任・鎌倉へ叛旗を翻す。
兼任の軍、八郎潟に溺死。
建武元年 1334 北条氏の余党、男鹿に拠る。
南北朝時代、男鹿は北朝方安東氏の支配下に入る。
天文15年 1546 このころ、脇本城の築城
文禄3年 1594 秋田実季・門前日積寺へ永代700石余寄進。

近世
江戸時代

慶長7年 1602 秋田実季は、外様として常陸宍戸に配置替え。
常陸の佐竹義宣が外様として、秋田へ入国。
男鹿の百姓代表が院内まで迎えに赴いたと伝えられる。
元和2年 1616 藩主義宣、男鹿に放鷹、以後しばしば来島
寛永 1643 戸賀・小浜・北浦・船川に唐船番所が置かれる。
慶安2年 1649 男鹿山に数頭のシカを放つ。
寛文8年 1668 円空が男鹿入りしたと伝えられる。
天和元年 1681 男鹿の海賊が戸賀で処刑される。
宝永3年 1706 第一回の鹿狩りが行われる。
享保15年 1730 男鹿全島の戸数1,800余軒。
廷亭3年 1746 能代奉行より安全寺外四課ヶ村杉林の保護育成を指定される。
安永5年 1776 木喰上人来島、真山・本山を訪れる。
天明元年 1781 奥羽四天王の一人、俳人吉川五明が来島
亭和2年 1802 伊能忠敬の一行、男鹿回測。
文化6年 1809 菅江真澄、男鹿へ入る。文化7年再び来る。
文化7年 1810 男鹿地方大地震、潰家千四百余、死者61人
文化8年 1811 この年から文政5年までに男鹿山に杉93万本植林される。
文政4年 1821 渡部斧松、若美町長根の開墾に着手。
天保4年 1833 奥羽、関東で天保の飢饉。男鹿も大凶作。
潰家300余、死者2,500余という。
弘化4年 1847 勤皇の志士・頼三樹三郎が来遊、加茂に泊まる。
嘉永5年 1852 男鹿全島の戸数2,500余、人口16,600余人。
安政6年 1859 門前へロシア船到来、所要の薪を積み、3日目に去る。
慶応4年 1868 戊申の役、秋田藩に対する援軍船川に上陸。

近代
明治維新~第二次世界大戦敗戦まで

明治16年 1883 ロシア海軍士官らを乗せた船が船川に漂着。
明治30年 1897 文豪幸田露伴・大橋乙羽・結城豊太郎らと男鹿半島を周遊する。
明治38年 1905 俳人石井露月・作家田山花袋が来島。
大正5年 1916 船川線(現JR男鹿線)が全開通する。
大正15年 1926 画家伊東深水らが探勝。
昭和2年 1927 尾崎行雄講演のため来島。
昭和12年 1937 男鹿海岸が名勝史跡・天然記念物委員会で「名勝」に指定
昭和14年 1937 男鹿大地震が発生

現代
第二次世界大戦後から現在

昭和27年 1952 観光秋田三十景・男鹿一位、高松宮様が男鹿半島へお成りあそばれ、男鹿半島を広くご遠望されたため八望台の名がこれよりおこる。
昭和28年 1953 県立公園条例により男鹿・八郎潟を含む地域が県立公園に指定される。
昭和29年 1954 船川港町、脇本村、五里合村、男鹿中村と戸賀村が合併し、男鹿市が誕生。
昭和30年 1955 北浦町と船越町が男鹿市に編入。
昭和32年 1957 八郎潟の干拓がはじまる。
昭和39年 1964 大潟村が開設する。
昭和44年 1969 天皇・皇后両陛下が男鹿半島へお成りあそばれた。
昭和45年 1970 皇太子殿下ご夫妻が男鹿半島へお成りあそばれた。
大桟橋有料道路が開通される。
昭和52年 1977 新観光秋田三十景に入道崎・桜島・大桟橋ラインが一位となる。
昭和54年 1979 第102回秋田県種苗交換会が男鹿市で開催される。
昭和55年 1980 船川港開港五十周年
昭和57年 1982 東北郵政局はがきで選ぶ東北観光地六十景で男鹿半島が一位となる。
昭和58年 1983 「日本海中部地震」が男鹿半島を直撃する。
昭和63年 1988 新装「スカイパーク寒風山回転展望台」が完成する
平成17年 2005 旧・男鹿市と若美町が合併して、新制の男鹿市が発足する。

参照 : 男鹿市ジオパーク学習センター 男鹿市役所若美庁舎2階
  寒風山回転展望台「男鹿半島・大潟ジオパーク展示室」
  男鹿半島 - その自然・歴史・民族
  一千二百年前の八郎湖岸開拓 - 小谷地遺跡の灌漑堰

出羽一国御絵図


江戸時代初期の天保4年(1,647)、江戸幕府は諸大名に命じて国絵図を作成・提出させました。いわゆる「正保国絵図」です。このとき出羽国の絵図元となった秋田藩が提出した原図(明暦の大火で焼失)の控えとして作成したと考えられるのが「出羽一国御絵図」です。縦1225cmx横535cmの巨大な画面には八郎潟や雄物川、鳥海山をはじめとする出羽国の山河が鮮やかな色彩で描かれ、国郡境・城下町・村名・村高・道路・一里塚・海上航路などを確認することができます。絵師は狩野定信といわれ、最初の秋田県指定有形文化財の一つです。


男鹿半島  出羽一国御絵図

男鹿半島 出羽一国御絵図

男鹿半島 観光パンフレット


男鹿半島を案内する観光パンフレットは、観光案内所や宿泊先で入手できます。寒風山、南磯、西海岸、入道崎、八望台、真山や男鹿温泉郷の地域情報、行事、宿泊先、男鹿の食べ物や観光エリア・マップなど男鹿半島の観光情報が満載されています。


男鹿半島  観光パンフレット


男鹿半島 観光パンフレット

男鹿ガイドブック


男鹿ガイドブック


男鹿ガイドブック (無明舎出版)

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